「ジェンダー平等審議会の設置に関する条例」に反対意見を述べました(9/26)

議案第59号「ジェンダー平等審議会の設置に関する条例」に反対の立場から意見を述べます。

 国連が定めたSDGsの中で「ジェンダー平等」は目標の一環として位置付けられていますが、女性やセクシャル・マイノリティを差別・抑圧から解放するものでは断じてありません。SDGsは、「持続可能な開発目標」という訳語に明らかなように、その本質は資本主義を「持続」させる成長戦略でしかありません。「貧困」「飢餓」「健康と福祉」「平等」「クリーンエネルギー」「気候変動」「平和」などを課題として挙げていますが、貧困や飢餓、原発推進、そして世界戦争の危機を引き起こして人びとの命を奪い続けている資本主義が、その危機を逆手にとって「開発目標」とすること自体が許しがたいペテンであるということをまず初めに申し上げます。

 私は、資本主義の「改良」や啓発運動で社会的差別がなくなるとは思っていません。歴史を見れば、議会での法整備やリーン・インによって「進歩」や「男女平等」が実現したのではなく、女性を先頭とする労働者階級の実力の闘いによって勝ちとられてきたものだからです。

 資本主義のもとでは「私的奉仕」とされている家庭内労働、出産や子育ては原始共同体では社会的労働でした。しかし、私有財産の発生と社会的分業の発展は、支配階級にとって「価値のある」生産労働を第一に優先し、そこに生殖や育児といった領域を従属させました。男女の生理的・自然発生的分業は、社会的分業に従属させられることで、女性の生殖・授乳期育児という生理的分業は「男は外、女は内」という性別役割として差別的に固定化され、「子産み道具」「家内奴隷」として扱われるようになりました。この有史数千年の家族制度と私有財産制こそが、現代に至るまで再生産されている「女らしさ」や「男らしさ」といった「社会的性=ジェンダー」の根源です。

 9月20日の区民生活委員会の答弁でも述べられた「アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見・思い込み)」は、内閣府男女共同参画局のパンフレットでも特集が組まれ、SDGsでも語られている言葉です。差別・抑圧の根源をたえず生み出し、圧倒的多くの女性労働者を低賃金・非正規化で搾取し未来を奪っている張本人である政府・財界たちが、その責任を個々人の「無意識」や「無理解」のせいにして、「偏見」や「思い込み」を「正せば」差別・抑圧が改善されるかのように描き、それを政治家や大資本・大企業が自らの手柄として宣伝していること自体がまったくもってナンセンスです。

 現実を見てください。杉並区で働くおよそ2500人の非正規公務員=会計年度任用職員の約9割が女性です。特に、その大半が「子ども家庭部」「教育委員会事務局」「保健福祉部」に集中し、児童館・保育園・学校等で常勤職員とともに子どもたちの命を預かり必死で働いている会計年度任用職員が、職場では名前ではなく「会計年度さん」と呼ばれたり、「補助的業務だから」と1年更新・超低賃金の非正規雇用を固定化して「官製ワーキングプア」を生み出しておいて、何が「ジェンダー平等」でしょうか。

 有識者を集めて審議会を開催して人々を啓蒙し、条例を作っても、女性・セクシャルマイノリティへの差別・抑圧は決してなくなりません。女性を「産む機械」や「安価な労働力」におとしめる家父長制は単なる封建時代の遺物ではなく資本主義を成り立たせるために再構築されたものであり、「古い考えの男」を啓蒙すれば問題が解決するわけではないからです。

 米大統領選や自民党総裁選では主要候補に女性が登場し、女性初の連合会長や検事総長が登場しています。果たして、「ガラスの天井」を打ち破ることによって、女性差別は撤廃されつつあるのでしょうか。断じて否です。より批判的なフェミニストたちが「ガラスの天井」になぞらえ「ガラスの断崖」と批判しているように、組織が危機的状況の時ほど、女性が責任あるポストに就かされる傾向にあります。G7をはじめとする支配階級は女性差別などなくなりつつある、もしくは、なくそうとしていることを演出することができ、女性たちは指導的地位に就くチャンスが極めて限られていることからリスクの高さをわかっていたとしても引き受けざるを得ないという「進も地獄、退くも地獄」の選択を強いられ、実際に失敗すれば「やはり女性はトップに向いていない」という評価を再生産できるというものです。一握りの女性を支配階級の一員とする一方で、低賃金のケア労働を経済的に弱い立場に置かれた移民などの女性に押し付け、大多数の女性を「安い労働力」として利用し、能力主義的に格差を拡大しています。「ガラスの天井」を打ち破り「体制の一員になる(リーン・イン)」というリベラル・フェミニズムの教義は、支配階級によって容易に利用できます。

 日本において1987年の国鉄分割・民営化、1985年の労働者派遣法とセットで制定された1985年の男女雇用機会均等法は、中高の教科書などでは1999年の男女共同参画社会基本法と並んで男女平等を実現させた法律であるかのように語られています。しかし現実には、均等法は膨大な女性を「子どもを持つ女性が働きやすい」といううたい文句で不安定・低賃金のパート労働や派遣労働に追い込み、変形労働時間制の導入=8時間労働制の解体を強行し、「時間外・休日労働の制限、深夜労働や危険有害業務の禁止」の女子保護規定を次々と撤廃しました。その結果、女性労働者が得た「自由と権利」とは、超長時間労働や深夜労働で体がボロボロになるまでこき使われる「自由」であり、正社員の半分以下の低賃金で正社員と同じように多重業務や重労働、残業までも課せられるという「権利」です。均等法攻撃は労働者全体が必死の闘いを通してもぎ取ってきた諸権利をすべて剥奪し、今日に至る総非正規職化と極度の低賃金・過労死・貧困化、労組破壊と無権利化の突破口とされました。

 最後に、女性の「自己決定権」についても一言述べます。女性が性を「自由に」扱うことによって、あたかも女性解放が実現していくかのような主張が流布されています。しかし、新自由主義と戦争による直接の政治的・経済的圧迫によって自らの性や身体そのものを差し出さなければならない人々が大量に生み出されている現実から切り離した形で「自己決定権」を強調することは、階級社会の搾取・抑圧・差別の現実を隠蔽する役割を果たします。真の意味での「自己決定権」や性差別・抑圧からの解放は、家族制度・私有財産制度が存続している限り、資本主義・帝国主義を打倒しない限り、実現することはできません。その変革抜きの「自己決定権」の追求は観念論と自己合理化への転落の道です。資本主義という社会体制・社会構造そのものの変革を問題にせずに、「自由」「平等」「権利」といった美名のもとに改良を重ねていくことの先にあるのは、女性差別の強化でしかありません。

 昨年3月に成立した「性の多様性条例」は、本来ならば、性差別・性抑圧に対してともに声をあげることが可能な女性とセクシャル・マイノリティの「対立」を生み出しています。女性が差別や性暴力から身を守るために歴史的にかちとってきた女性スペースをはじめとする諸権利は、女性がもともと持っている「特権」では断じてなく、むしろそれは性差別・性暴力が今なお厳然と存在している現実の証明です。

 また、女性差別と同じ物質的基礎を持って、セクシャル・マイノリティの人々も家族制度の中で女性、男性に要求される生殖機能を果たさず、資本の求める性規範に適合しないがゆえに差別の対象とされています。

 私は、すべての女性とセクシャル・マイノリティの性的差別・抑圧からの解放の道は、資本主義の「改良」ではなく、人間が人間を搾取する階級社会の廃絶に向けて闘うことこそが必要だと考えます。そのために私は、最大の人権侵害である戦争に絶対反対を貫き、性差別・抑圧の根源である家父長制的家族制度とそのイデオロギー、戸籍制度、天皇制を廃止するために闘います。

 以上の立場から、議案第59号には反対します。

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